せきらら性教育 -5ページ目

逝くこと

義母が時折やんだを言う。


点滴はいやだ、風呂に入りたい、点滴取って、好きなようにさせて。


その理不尽さ、息子が小さかったときのヤンダダダと同じ。


そして、わたしに訴える。


何とかしてよ、ねえ、ねえ。


ああ、子供に帰るんだな。


そう思う。


でも、息子だったら、そこで叱ったり、いけないと教えようとしたりするだろう。


義母にはしない。あやして、あやして、ご機嫌をとってあげる。


逝くとは、こういうことなのだ。






自分も一緒に逝ってしまうかも知れない。


そうならないように、今日も生きている人を見つけに行く。


炭酸入りのミネラルウォーターを口に含む。



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ちょっと凹み気味。まあ、いろいろあるわ。

ヨーヨー・マの弾くバッハの無伴奏チェロソナタが心にしみる。

パブロ・カサールスの演奏もよかったけど、こういう夜は、ヨーヨー・マのほうがいいな。

眠ること

息子は赤ちゃんのとき、ものすごくよく眠るこどもたっだ。


それは、半端ではなかった。


生後2ヶ月半のとき、普段は比較的よく寝る息子が、一晩中、泣いて泣いて、泣き通したことがある。病気でもなんでもない。単に、おなかがすくのだ。ものすごい量の授乳をした。しょうがないので、一晩中、たくさん水を飲み、豆を食べ、ミルクを飲み、単なる母乳製造機となった。


それが、朝の6時くらいまで続いた、と思う(疲労困憊で記憶が定かではないです)。


そして、息子は、寝た。


寝ました。

起きない。





お昼になっても、起きない。

寝てます。

爆睡。




たまたま、保健婦のメアリーが来てくれる日だった。だから、メアリーに、


「起きないんですけど・・・」


と、言うと、


「そうね、今寝てると、夜ねないもんね。わたしに任せなさい


と、息子を起こしてくれることになった。くすぐる、あたりから始まり、抱っこをして左右に揺らす、オムツを代える・・・。


普通なら、このあたりで起きる。


しかし、息子は起きない。


メアリーは、おかしいわね、と言いながら、ひざの上で「お馬さんごっこ」をした。ボンボンボン、とひざの上でリズムに乗って息子を跳ねさせる。息子はこれが大好きで、普段なら、げらげらと笑っているはず。


しかし、息子は起きない。


「しょうがないわ、最終手段に訴えてもいいわね」


メアリーは、覚悟を決めた。わたしたちも覚悟を決めた。


そしてメタリーは









































指で息子の

まぶたを

開けようとした。




そして、息子は















































力を入れて

まぶたを閉じて

開かせない。
ぎゅうううううううううううううううう~


筋肉対決

指VSまぶた


昔から意志の強い子でした。自分ですると決めたことはやりとおす子供でした。ほんとによく寝る子でした。この日から、夜の7時から翌朝の8時まで寝るようになりました。



今、義母は一日のほとんどを眠って過ごしていて、その隣で、ただ座っている役立たずなわたしです。眠っている義母を見て、眠りにつこうとする意思を感じます。眠り続けようとした息子をたたき起こそうとしたような事は、彼女にはしたくない、と思っています。

母の日

日本の母の日はアメリカの母の日です。五月の第二日曜日。


でも、実は世界中で同じではありません。


ちなみに、イングランドでは三月の日曜日です。どの日曜日か決まっていません。なぜかというと、この母の日は、イースターとその周辺のお祝いに関係しているかららしいです。


イースターの直前の40日間をレントといいます。このレントに入ってからの4番目の日曜日がイングランドの母の日です。


一年に一度、自分が属している教会のMother Church(その地域で一番大きな教会)に行くことが大事だとされていたそうです。レントに入ってからの4番目の日曜日にそうしていたのだそうです。ですから、領主や貴族の館などに奉公に出ている子供たちも自分たちのMother Churchを訪ねることを許される日なんだそうです。


江戸時代の薮入りみたいなものですね。


そうすると、その結果として、自分の家族に会うことができます。子供たちは、教会へ行く道すがら、久しぶりに会える母親へのプレゼントとして、道端の花を摘んで小さな花束を作って行ったそうです。


わたしは、この話を聞いたときに、母親に久しぶりに会える喜びを託した小さな花束を作れる子供たちをとてもうらやましく思いました。そんな風に、暖かく自分の母親を愛せることはなんと幸せなんだろうと思いました。


わたしは、母がなぜそうであったかを今は理解しています。だから、怒りもないし、憎しみもない。そこにあるのは、冷静な理解だけです。でも、少しは期待していました。わたしが変わったように、母も変わったかもしれない。わたしがなぜそうであったかを理解してくれたかもしれない。お互いの理解が元となって、何か新しいものが生まれるかもしれない。


久しぶりに今回の一時帰国で母に会ったとき、母は何も変わっていませんでした。わたしの理解を愛情だと誤解し、昔と同じように自分の望む「娘像」をわたしに押し付けようとしました。


道端でつんだ野の花は、やはり、野においておくべきものでした。あっという間に枯れてしまいます。一年に一度だけ、そうしなければいけないのだから、高い花を無理して買って贈ったほうがいいようです。大きな花束だと、わたしの顔も隠れますから。

しつこいようだが、昨日の記事の補足

昨日の記事はこちらです。


しつこいんですよ、性格が(笑)。


でも、実は、性教育というのは、自分が持っている肉体的性に対する実践的な知識と、自分が後天的に確立したジェンダーに対する理論的知識を持って、自分という世界にひとつの個性を存分に生きるためのものだと思っています。


たとえ、どんな肉体であろうとも、どんなジェンダーを持とうとも、それに劣等感を覚えることなく、自分の個性としてそれを受け入れ、他人の個性も受け入れることができる個人を作ること。大言壮語をするようですが、これがわたしの理想です。


だから、こういった話題というのが、性教育というものにとって一番大事な根っこの部分だと思っています。だから、もう少ししつこく。


昨日、コメントで、complexologistさん が、「社会的ジェンダーの枠組みというのが必要ではないか」、と指摘されました。また、kayoさん は同じものを「最大公約数」と表現されています。わたしはそれを「ひな形」と言っています。


が、実は、これは、ナラティブと呼ぶべきものではないかと考えています。物語、です。


わたしたちは一人一人、まったく違う経験をします。そして、変わってゆきます。時間がたつから変わるのではなくて、変わったために時間がたったことを認識するのだと思います。わたしたちはずっと同じままではありえない。


でも、同じままではありえない、としても、そこに過去の自分と今の自分と未来の自分につながりがなければ、個というものが成り立ちません。だから、変わってゆく自分をひとつのものとするためにナラティブが必要になります。


歴史もひとつのナラティブです。江戸時代、戦前、戦後、と日本は大きく政治形態が変わり、国民だって入れ替わり、国土も大きさが変わりました。おなじ国とはいえないような過激な変化を経験しました。それでも、それをひとつの国としてわたしたちが考えられるのは、そこに歴史というナラティブがあるからです。


ところで、ナラティブというのは人間が作るものです。(←ここの議論はちょいと専門的になりすぎるので、そういうことにさせてください。)


だから、同じ人物や国に対してまったく違うナラティブも作ることが可能です。


しかし、恣意的にまったくあたらしいナラティブを作ってしまうと、それを筋の通った物語としてわたしたちは認識できません。


なぜなら、ほとんどのナラティブには共通した構造があるからです。この共通構造を「社会的ジェンダーの枠組み」「最大公約数」「ひな形」ということができると思います。


たとえば、横森里香の「恋愛は少女小説で教わった」という本を読むと、恋愛というのには基本的ナラティブパターンが数個しかなく、そのパターンにわたしたちが大きく影響をされているかがわかります。


要するに、ナラティブの細部は交換可能だけど、構造は変更不可能なんです。このあたり、プロップという人がかなり面白い研究をしています。そして、あたらしいナラティブの構造が社会に受け入れられるようになるには、かなりの時間がかかります。


ゆえに、社会にあるナラティブの構造は古いものがいまだに残っている。でも、わたしたちを取り巻く環境やわたしたち自身はどんどん新しくなっている。だから、古いナラティブの形にはまらない人たちも増えている。


かなりの数の日本人の女性が海外で暮らすことを望んでいます。これは、既成のナラティブにはまりきらない自分を解放しようとしている、と分析できるのでは、と思います(注1)。


また、引きこもりをするというのも、既定のナラティブにはまらない自分を、ナラティブを押し付けてくる社会から隠れることで、そのナラティブを拒否し、自由に自分を生きようとするひとつの試みと考えられるのではないかとも思っています。


この、引きこもりという現象は、実は日本に特有なものではないかといわれています。それについてはいろいろと議論ができると思いますが、確かなことは若者の引きこもりの数の多さは日本がダントツだということです。


この理由は、日本という社会に存在する、個性に対する既存のナラティブの数の極端な少なさにあるのではないかと思っています。男であればこうでなければいけない、女の子であればこうでなければいけない。そういう断定的なナラティブしか与えられないと、大人になり、こういったナラティブにはまらない自分を発見すると非常に苦しみます。


そして、そこにある解決策は、社会が別のより自分に当てはまるナラティブを提供してくれない以上、その社会から逃れること(海外脱出か引きこもりか)しかないのではないかと思います。


もう少し過激な方法として、社会を変革してしまう、ということもあるかと思います。しかし、変革には時間がかかります。多分、100年単位の時間がかかるでしょう。それを短期間でやってしまおうとすると、オーム真理教になるわけです(注2)。


メディアは大きな力を持っています。わたしが、ムーニーの宣伝を見て、怒りを感じたのは、断定的な既存のナラティブの補強が行われている象徴として感じたからだと思います。


出発点として、また、相互理解のためにも、ある程度の社会的に合意されているジェンダー・イメージや概念というものは必要です。


でも、complexologistさんがご指摘されたように、「日本人ならお茶しか飲んじゃいかん」的な断定は、不幸しか招きません。「日本人なら、まあ、お茶でも飲んでみる?」くらいの示唆でいいのではないかと思います。それに対して、どのように答えるのかは、個々の判断に任せればいいと思うのです。それが、ナラティブの数を増やすことです。何も、今あるものを全部否定するのではないのです。「乗り越える」のです。


この、ムーニーの宣伝のようなもので断定的な既存のナラティブを補強することによって、このナラティブを生きることができないジェンダーをもつ未来の子供たちがどこかで窒息させられるかもしれないと思うと、やはり怒りを覚えます。


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注1: 海外に出たからといって、簡単にあたらしいナラティブを獲得して、あたらしい個性として生きていけるわけではありません。海外に出るというのは、日本の既存のナラティブからの脱出といえると思います。でも、そこで、新しい自分のナラティブを獲得するのはまた話が別です。「パリ症候群」という現象にはこの難しさがよく出ていると思います。


注2: この部分に関しては、村上春樹の「アンダーグラウンド」のあとがきなどを参考にしてください。


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著者: 横森 理香
タイトル: 恋愛は少女マンガで教わった

読んで納得してしまいます。結構笑えるし、なつかしのあの漫画をもう一度違う角度から味わえます。とってもお勧めです。

わたしだったら絶対に買わない

今朝、TVを見ていてうんざりした。番組ではないです。宣伝。

おもちゃの宣伝というのは結構露骨に男の子と女の子のジェンダーイメージを押し付けてきます。男の子がアクションマンで、乱暴と破壊の限りを尽くしている間、女の子はバービーで買い物とおしゃれと整形手術、なんて風にね。

こういったジェンダー・ステレオタイプのおもちゃというのはどうかと思う。ほんとに、おもちゃ屋さんに行くとうんざりする。男の子のおもちゃは黒や深緑や青。女の子のおもちゃはピンク・・・。

ジェンダー・フリーというのはこういった男性や女性に対する押し付けられた既定のジェンダーイメージをなくすことで、わたしはこれは結構大事なことだと思っています。

ちなみに、どっかの馬鹿な国会議員が大間違いをしていましたが、ジェンダー・フリーというのは更衣室やお手洗いを男女一緒にすることではありません。

まあ、おもちゃに関しては、そういう宣伝がたとえあっても、親が買い与えないことができます。必需品じゃないから。別の対処の仕方もあるし。

でも、今朝はほんとにうんざりした。

ムーニーの宣伝。もう、大きくなってきてそろそろオムツが取れるかな、という子供にはかせるパンツに近いオムツを宣伝している。これは、なかなか便利です。わたしも息子のトイレトレーニングの時にはお世話になりました。

問題なのは宣伝文句。

「女の子だからかわいいのがいいよね。キュートガール」
「男の子は乗り物が大好き。アクティブボーイ」

ちょっとまちなよ、女の子はかわいくおとなしくしてろ、男の子は外に出てがんがん働けってそういうイメージを何で、オムツにまでつけちゃうの? しかも、どちらかしか選べない。男か、女か。何でそういう二元論的な考え方をしちゃうわけ? しかも、ひとつの性別を選ぶと、なんか変な性別に関する価値観まで同時に一緒についてくるパッケージ旅行みたいになってるわけ?

ジェンダーというのは、前にも書いたけど、先天的に与えられた肉体的性ではなく、後天的に形成される性意識です。この性意識の研究は欧米で盛んになりつつあって、単に男性と女性ではなく、もっと複雑な自意識で、思春期を終えるくらいまで成立しないものだと理解されています。

自分が誰であるか、という、個性のユニークさ(ユニークというのは世界にひとつしかない、という意味です)を確立する上で、ジェンダーというのはとても大事です。よいワインがゆっくりと熟成するように、自意識というのもじっくりと熟成する必要があります。

自分という個性を形成するさまざまな要素、それをゆっくりと選び、考え、選びなおし、考え、またまた選びなおし、という風に、人は成長します。そうして、世界にひとつしかない「わたし」が出来上がるのです。

しかし、こういったジェンダーステレオタイプは、パッケージ旅行のように、個性の要素がはじめからすべてが決められています。女の子はかわいくてお花が好きで、お化粧や買い物が大好き。男の子は乗り物が好きで、活動的で冒険が大好き。そして、多くのパッケージ旅行がそうであるように、二つのパッケージの中身は相互交換が不可能か、それに近いものになります。

こうした自分に対するイメージのパッケージを与えられると、それにそぐわない自分を発見したときに、非常に苦しむことになります。パッケージというのは全部パーツがそろっていて初めて意味があるからです(レゴとかプラモデルのパッケージみたいに)。ひとつでもないということは、全部ないのも同じということになりかねないのです。

たとえば、引きこもり、はこういったイメージ・パッケージの弊害の現れ方のひとつといえないこともありません。長男が引きこもりの大多数を占めていることからも、そういう推測を立てることが可能です。

長男、
男の子だからしっかりしてて、
勉強もできて、
将来はいい会社でいい仕事について、
たくましくて・・・


そうでない自分、そう在れない自分を自由にするために、最も不自由な生活形態を選ぶ。そうでなければ、自分に与えられたイメージ・パッケージから自由になれないから。それが引きこもりという現象の根底にある原因ではないか、と考えられているそうです。

個性が大事、というのであれば、こういったイメージ・パッケージの使用をやめるべきでしょう。ジェンダー・ステレオタイプはそのパッケージのひとつです。

わたしが、自分の血液型を絶対に日本人には言わないのはこれが理由です。わたしという個性はそんな汎用パッケージでできていない。そんなもので判断してもらいたくない。

同じ理由で、わたしだったら、このオムツは絶対に買いません。

真実を求めること

まろさんが子供のときに、ばーちゃんに言われて、怖いことを信じてしまった 、と書いていらっしゃった。それを読んで、ほほえましくって笑っちゃったんだけど、実はわたしにも似たような話がある。


それは、年上のいとこが教えてくれた話。

自分の家から自分の家に電話をかけると、


電話機が

爆発する。


ありそーじゃん。自分が送った電波がバックファイアー!!!!ドカーン!


そのころ、やたらと黒魔術とか中世の魔術とかが好きで、その手の本を読みまくっていた小学校4年生のわたしは、呪いの跳ね返り現象なんかを知っていたので、いとこをマジで信じた。


その後、ありそうもないけど、いまだに確認できずにいる。


さて、息子が電話をかけられるようになったとき、一応、言っておいた。


「あんな、このおうちの電話で、おうちの電話に電話かけたらあかんで(電話が多くてややこしいな)。爆発するさかいナ」


息子は神妙な顔でうなづいた。


そして、何年かたった。


世の中にはアブねーことがある、という話をしていた。そのとき、話のついでに


「そや、自分の電話に自分の電話から電話かけたらあかんで」


と、確認を入れておいた。すると息子が言った。


「爆発しないよ」
「何で知ってるねん?」
「実験したの、この前」
「うひゃー、無茶しよるなあ」
「うん、ちょっと怖かった。でも、お話中のツーツーって音がするだけだった」


息子は母のおばかな思い込みを、経験的に真実でないと確認したのでした。実証って大事よね。うん。そやけどほんまやったら、死んでたで・・・。


忘恩の輩め・・・・

息子は学校から選抜されて、小説書き学校対抗戦のメンバーに選ばれた。去年の話。

選抜メンバーは、近所に住んでる子供のお話を書く作家の人のワークショップに毎月参加する。それで、テーマをもらって、短いお話を書く。その中からいいものを選んで、最終戦に提出される。そこまで残ったら、書いたものは本に印刷されて出版されるんだって。

出版といっても、自費出版みたいなものですけどね。

それで、今日、結果が出て、息子は最終戦にまで残ったそうだ。

「おかあ、僕の話、出版されるんだよ」
「それはよかったなあ」
「先生から、とってもよくかけてるよ、って褒められちゃった」
「そうか?」
「うん、細かいところまで気を使って書いてあって、悲しい話だけど、そこにあるユーモアのセンスもすっごくいいって」
「誰のおかげや?」
「?? 僕が書いたんだよ」

お前・・・手伝ったったこと忘れとるな・・・。

これが、国際電話やなかったら、頭はたいたったんやけど。

むなしいよなあ、親ってさ。子供は怒られたことしか覚えてなくて、手伝ってもらったこととか、すっかり忘れてんだよね。

















































・・・それは、わたしも、同じだわ(笑)。

髪の毛が立っている

息子がまだまだ乳飲み子だったとき。

生まれたときから髪の毛がふさふさと生えている子だった。わたしもやっぱりそうだったそうで、これは遺伝なのかな? 変なところが似るもんだ、と思っていた。

柔らかい髪の毛なのに、息子の毛は総立ち。なんていうか、伸びすぎのモヒカンみたい。大人になってもこの髪形のままだったら、どうしたらいいんでしょう?・・・なんて、真剣にお医者さんに聞いて笑われたことがあります。

「あのね、赤ちゃんだから、一日中寝てるでしょ。だから、寝癖なんですよ。お座りするようになったら、うそみたいにぺたっとなりますよ」

はあ、重力のせいですね・・・。そういえば、しわができるのも、肩がこるのも、みんな重力のせいだそうです。つくづく、わたしたちって地球という星に暮らしているのだと思います。

今日、義母をお手洗いに連れて行ったとき、彼女の髪の毛が息子の赤ちゃんのときと同じ髪形になっていました。

人間というのは、年をとるのではなくて、子供にもどり、母の胎内の向こうにある命の始まりに帰るのでしょうか。寝言を言っている義母の横顔を見ながら、そう考えました。

国際電話

本日、息子と電話で話しました。


声がはっきり聞こえるのでなんだか、隣の部屋にいるみたいです。


わたしが子供の時には、国際電話ってすごく高くて、はじめの3分の基本料金の分しかしゃべらないように時計をにらみながら、アメリカに出張していた父に母が電話をかけていたのを覚えています。しかも回線が悪くって・・・。


エコーが聞こえるんですよね。しゃべるのにも時差ができて、父はなんて遠いところに行っているんだろう。そんな遠いところに、わたしもいつかいけるのだろうか、と思ったのを覚えています。


ま、確かに遠くに行ってしまったわけだけど。


今は、国際電話は下手をしたら国内電話よりやすいかもしれないし、回線もほんとによくなりました。


でも、逆になんとなく距離の感覚がなくて。


息子が大きくなったとき、遠く、というのをどんな風にして実感するのかな、と思いました。

あのねぇ・・・・

今、TVで報道2001という番組をしていて、性教育について話しています。ま、その議論の内容は、それぞれにいろんな意見があるだろうし、推進派・慎重派それぞれ聞くべき点があります。


こんな風に議論するのはいいことです。


わたしとしては、その年代相応の知識を与えるべきだと思いますね。性に関する知識をタブーにするから、変な情報がたくさん流れるんだしね。きちんと正確な知識を教えて、他者を尊重することを覚えることが大事だと思うんだけどね。


ま、それはともかく。


なんなの、この人、自民党の議員らしい山谷えり子。この人、ムガベのことを褒めたよ!!!


こういう、国際的な問題意識のなさが自民党の政治家の致命的なところですね。この人ブッシュのキリスト原理主義的教育も褒めてるし・・・。


なんか、朝からがっくりきました。


しかも、その後の話題はジェンダーフリーに移りました。。ジェンダーフリーって、紋切り型の性的特徴を押し付けないことで、更衣室とか便所をを一緒にすることじゃないでしょ・・・・。


しかし、いわゆる「慎重派」は、なんか、古臭い考え方で、自分たちに都合のいい資料だけ持ってきて、それでもって性教育を批判する、という、ちょっと、ディベートに参加するにしてはお粗末な準備ですね。わたしが教えたクラスでこういったことをしたら、ディベートの前にアウト、ですね。しかも、主張しかできない。いかに、彼らがお粗末な「常識」に頼りきっているかがまるわかり。考えなさいよ・・・。


しかも、自分が書いた本に関して批判されたら答えられない慎重派の大学助教授の八木とか言う男・・・あんた、学者じゃないよ。こういった人が大学助教授、といって威張っていると思うと、憂国入っちゃいますね・・・。


はぁ・・・・・。