しつこいようだが、昨日の記事の補足 | せきらら性教育

しつこいようだが、昨日の記事の補足

昨日の記事はこちらです。


しつこいんですよ、性格が(笑)。


でも、実は、性教育というのは、自分が持っている肉体的性に対する実践的な知識と、自分が後天的に確立したジェンダーに対する理論的知識を持って、自分という世界にひとつの個性を存分に生きるためのものだと思っています。


たとえ、どんな肉体であろうとも、どんなジェンダーを持とうとも、それに劣等感を覚えることなく、自分の個性としてそれを受け入れ、他人の個性も受け入れることができる個人を作ること。大言壮語をするようですが、これがわたしの理想です。


だから、こういった話題というのが、性教育というものにとって一番大事な根っこの部分だと思っています。だから、もう少ししつこく。


昨日、コメントで、complexologistさん が、「社会的ジェンダーの枠組みというのが必要ではないか」、と指摘されました。また、kayoさん は同じものを「最大公約数」と表現されています。わたしはそれを「ひな形」と言っています。


が、実は、これは、ナラティブと呼ぶべきものではないかと考えています。物語、です。


わたしたちは一人一人、まったく違う経験をします。そして、変わってゆきます。時間がたつから変わるのではなくて、変わったために時間がたったことを認識するのだと思います。わたしたちはずっと同じままではありえない。


でも、同じままではありえない、としても、そこに過去の自分と今の自分と未来の自分につながりがなければ、個というものが成り立ちません。だから、変わってゆく自分をひとつのものとするためにナラティブが必要になります。


歴史もひとつのナラティブです。江戸時代、戦前、戦後、と日本は大きく政治形態が変わり、国民だって入れ替わり、国土も大きさが変わりました。おなじ国とはいえないような過激な変化を経験しました。それでも、それをひとつの国としてわたしたちが考えられるのは、そこに歴史というナラティブがあるからです。


ところで、ナラティブというのは人間が作るものです。(←ここの議論はちょいと専門的になりすぎるので、そういうことにさせてください。)


だから、同じ人物や国に対してまったく違うナラティブも作ることが可能です。


しかし、恣意的にまったくあたらしいナラティブを作ってしまうと、それを筋の通った物語としてわたしたちは認識できません。


なぜなら、ほとんどのナラティブには共通した構造があるからです。この共通構造を「社会的ジェンダーの枠組み」「最大公約数」「ひな形」ということができると思います。


たとえば、横森里香の「恋愛は少女小説で教わった」という本を読むと、恋愛というのには基本的ナラティブパターンが数個しかなく、そのパターンにわたしたちが大きく影響をされているかがわかります。


要するに、ナラティブの細部は交換可能だけど、構造は変更不可能なんです。このあたり、プロップという人がかなり面白い研究をしています。そして、あたらしいナラティブの構造が社会に受け入れられるようになるには、かなりの時間がかかります。


ゆえに、社会にあるナラティブの構造は古いものがいまだに残っている。でも、わたしたちを取り巻く環境やわたしたち自身はどんどん新しくなっている。だから、古いナラティブの形にはまらない人たちも増えている。


かなりの数の日本人の女性が海外で暮らすことを望んでいます。これは、既成のナラティブにはまりきらない自分を解放しようとしている、と分析できるのでは、と思います(注1)。


また、引きこもりをするというのも、既定のナラティブにはまらない自分を、ナラティブを押し付けてくる社会から隠れることで、そのナラティブを拒否し、自由に自分を生きようとするひとつの試みと考えられるのではないかとも思っています。


この、引きこもりという現象は、実は日本に特有なものではないかといわれています。それについてはいろいろと議論ができると思いますが、確かなことは若者の引きこもりの数の多さは日本がダントツだということです。


この理由は、日本という社会に存在する、個性に対する既存のナラティブの数の極端な少なさにあるのではないかと思っています。男であればこうでなければいけない、女の子であればこうでなければいけない。そういう断定的なナラティブしか与えられないと、大人になり、こういったナラティブにはまらない自分を発見すると非常に苦しみます。


そして、そこにある解決策は、社会が別のより自分に当てはまるナラティブを提供してくれない以上、その社会から逃れること(海外脱出か引きこもりか)しかないのではないかと思います。


もう少し過激な方法として、社会を変革してしまう、ということもあるかと思います。しかし、変革には時間がかかります。多分、100年単位の時間がかかるでしょう。それを短期間でやってしまおうとすると、オーム真理教になるわけです(注2)。


メディアは大きな力を持っています。わたしが、ムーニーの宣伝を見て、怒りを感じたのは、断定的な既存のナラティブの補強が行われている象徴として感じたからだと思います。


出発点として、また、相互理解のためにも、ある程度の社会的に合意されているジェンダー・イメージや概念というものは必要です。


でも、complexologistさんがご指摘されたように、「日本人ならお茶しか飲んじゃいかん」的な断定は、不幸しか招きません。「日本人なら、まあ、お茶でも飲んでみる?」くらいの示唆でいいのではないかと思います。それに対して、どのように答えるのかは、個々の判断に任せればいいと思うのです。それが、ナラティブの数を増やすことです。何も、今あるものを全部否定するのではないのです。「乗り越える」のです。


この、ムーニーの宣伝のようなもので断定的な既存のナラティブを補強することによって、このナラティブを生きることができないジェンダーをもつ未来の子供たちがどこかで窒息させられるかもしれないと思うと、やはり怒りを覚えます。


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注1: 海外に出たからといって、簡単にあたらしいナラティブを獲得して、あたらしい個性として生きていけるわけではありません。海外に出るというのは、日本の既存のナラティブからの脱出といえると思います。でも、そこで、新しい自分のナラティブを獲得するのはまた話が別です。「パリ症候群」という現象にはこの難しさがよく出ていると思います。


注2: この部分に関しては、村上春樹の「アンダーグラウンド」のあとがきなどを参考にしてください。


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著者: 横森 理香
タイトル: 恋愛は少女マンガで教わった

読んで納得してしまいます。結構笑えるし、なつかしのあの漫画をもう一度違う角度から味わえます。とってもお勧めです。