わたしだったら絶対に買わない | せきらら性教育

わたしだったら絶対に買わない

今朝、TVを見ていてうんざりした。番組ではないです。宣伝。

おもちゃの宣伝というのは結構露骨に男の子と女の子のジェンダーイメージを押し付けてきます。男の子がアクションマンで、乱暴と破壊の限りを尽くしている間、女の子はバービーで買い物とおしゃれと整形手術、なんて風にね。

こういったジェンダー・ステレオタイプのおもちゃというのはどうかと思う。ほんとに、おもちゃ屋さんに行くとうんざりする。男の子のおもちゃは黒や深緑や青。女の子のおもちゃはピンク・・・。

ジェンダー・フリーというのはこういった男性や女性に対する押し付けられた既定のジェンダーイメージをなくすことで、わたしはこれは結構大事なことだと思っています。

ちなみに、どっかの馬鹿な国会議員が大間違いをしていましたが、ジェンダー・フリーというのは更衣室やお手洗いを男女一緒にすることではありません。

まあ、おもちゃに関しては、そういう宣伝がたとえあっても、親が買い与えないことができます。必需品じゃないから。別の対処の仕方もあるし。

でも、今朝はほんとにうんざりした。

ムーニーの宣伝。もう、大きくなってきてそろそろオムツが取れるかな、という子供にはかせるパンツに近いオムツを宣伝している。これは、なかなか便利です。わたしも息子のトイレトレーニングの時にはお世話になりました。

問題なのは宣伝文句。

「女の子だからかわいいのがいいよね。キュートガール」
「男の子は乗り物が大好き。アクティブボーイ」

ちょっとまちなよ、女の子はかわいくおとなしくしてろ、男の子は外に出てがんがん働けってそういうイメージを何で、オムツにまでつけちゃうの? しかも、どちらかしか選べない。男か、女か。何でそういう二元論的な考え方をしちゃうわけ? しかも、ひとつの性別を選ぶと、なんか変な性別に関する価値観まで同時に一緒についてくるパッケージ旅行みたいになってるわけ?

ジェンダーというのは、前にも書いたけど、先天的に与えられた肉体的性ではなく、後天的に形成される性意識です。この性意識の研究は欧米で盛んになりつつあって、単に男性と女性ではなく、もっと複雑な自意識で、思春期を終えるくらいまで成立しないものだと理解されています。

自分が誰であるか、という、個性のユニークさ(ユニークというのは世界にひとつしかない、という意味です)を確立する上で、ジェンダーというのはとても大事です。よいワインがゆっくりと熟成するように、自意識というのもじっくりと熟成する必要があります。

自分という個性を形成するさまざまな要素、それをゆっくりと選び、考え、選びなおし、考え、またまた選びなおし、という風に、人は成長します。そうして、世界にひとつしかない「わたし」が出来上がるのです。

しかし、こういったジェンダーステレオタイプは、パッケージ旅行のように、個性の要素がはじめからすべてが決められています。女の子はかわいくてお花が好きで、お化粧や買い物が大好き。男の子は乗り物が好きで、活動的で冒険が大好き。そして、多くのパッケージ旅行がそうであるように、二つのパッケージの中身は相互交換が不可能か、それに近いものになります。

こうした自分に対するイメージのパッケージを与えられると、それにそぐわない自分を発見したときに、非常に苦しむことになります。パッケージというのは全部パーツがそろっていて初めて意味があるからです(レゴとかプラモデルのパッケージみたいに)。ひとつでもないということは、全部ないのも同じということになりかねないのです。

たとえば、引きこもり、はこういったイメージ・パッケージの弊害の現れ方のひとつといえないこともありません。長男が引きこもりの大多数を占めていることからも、そういう推測を立てることが可能です。

長男、
男の子だからしっかりしてて、
勉強もできて、
将来はいい会社でいい仕事について、
たくましくて・・・


そうでない自分、そう在れない自分を自由にするために、最も不自由な生活形態を選ぶ。そうでなければ、自分に与えられたイメージ・パッケージから自由になれないから。それが引きこもりという現象の根底にある原因ではないか、と考えられているそうです。

個性が大事、というのであれば、こういったイメージ・パッケージの使用をやめるべきでしょう。ジェンダー・ステレオタイプはそのパッケージのひとつです。

わたしが、自分の血液型を絶対に日本人には言わないのはこれが理由です。わたしという個性はそんな汎用パッケージでできていない。そんなもので判断してもらいたくない。

同じ理由で、わたしだったら、このオムツは絶対に買いません。