せきらら性教育 -12ページ目

続・夢精についてのアドバイス

夢精についてのアドバイスを読んでからお読みください・・・。




だんなが帰ってきた。

「おとう、お帰り。夢精ってはじめてはいつだった?」

帰ってきた瞬間の質問に、一瞬、びびるだんな。

「おとうは、13歳、くらい、だったかな?」
「ふーん」
「何で、聞いているの?」
「やっぱりさ、デントウ的にいつくらいにするのか知っておくと安心かな、と思って」
「伝統的?」

夢精は我が家か誇る伝統かい?

「大人になってもするの?」
「する人もいれば、しない人もいます」
「夢を見ると必ずするの?」
「する夢としない夢があります」
「おとう、夕べはどんな夢見た?」
「みてない」
「ふーん。僕はねえ、おっきなチーズを食べようとして、チーズに落ちる夢を見た」

まだまだ、夢精は先そうやな。

夢精についてのアドバイス

昨夜、だんなは仕事で出かけていた。だんなが作っておいてくれたパスタを息子のYと食べた後、食後にチーズを食べていた息子が、いきなり、質問。

「夢精って、寝てるときにおしっこすること?」
「それはおねしょやなあ・・・」
「でも、ベッドがぬれるって・・・」
「ぬれるのはパンツとちゃうかあ」
「おちんちんから、白いもんが出てくるやつなの?」
「そや、白いやつが出てくるねん」

息子は「エイドリアン・モールの日記」を読んでいる。

「エイドリアンは、13歳ちょっとで初めて夢精したんだ」
「ほう。ホンで、パンツぬれたんか」
「うん」
「パンツはどうしたんや」
「ママに見つかる前に、洗濯機に入れたんだって」
「それは、あかん。ええか、ようお聞き、白いやつはな、たんぱく質で、卵の白身と分子構造が似てるんや。卵をといたボールをお湯で洗ったらあかんのはこの前教えたやろ」
「卵が煮えて、引っ付いて、取れにくくなるんでしょ」
「そや。洗濯するときな、お湯使うねん」
「じゃあ、パンツに白いのが引っ付くの?」
「パンツだけやなくて、そこらじゅうかも知れんなあ・・・。そやからな、 白いもんが出て、パンツがぬれたら、
水でよう濯いでから
洗濯機に突っ込みや」
「ハイ」

ええ子やなあ。ようゆうこと聞くわ。そうしたら、チーズを食べた皿を洗いながら、息子が聞いた。

「おかあ」
「なんや」
「夢精はいつごろするの?」
「おかあは、夢精できんさかい知らんなあ。おとうにお聞き」

そして、話は続く・・・。

********************
付記: The Secret Diaries of Adrian Mole(Sue Townsend著、シリーズものです)は1980年代にティーンの性を明るく描いた作品として話題を呼びました。日本語訳は「僕のヒ・ミ・ツ日記」(武田信子訳、てのり文庫)として、出版されています。でも、何で、こんな趣味の悪い翻訳タイトルをつけるのだ! 「Billy Eliot」も、「リトルダンサー」って偽善的なタイトルに直されてたし・・・「Officer and Gentleman 」も「愛と青春の旅立ち」・・・!! や、やめてくれ・・・。
この本、息子には評判がよかったです。わたしも、読みかけになっていたのを、盲腸の暇に任せて今日読み終えました。すごい悲惨な話なんだけど、悲劇ではなくて、喜劇です。

「普通」のヨーグルトは存在するのか

ちょっと前の話。海さんのブログ にTBして書いてます。

息子に

「ヨーグルト食べるかあ??」

ときいたら、息子は

「うん、普通味の」

と答えた。そして、またしても、わたしは怒ってしまった(うーん、怒らないようにしようとは思うんですけどねえ・・・・)。

「あほか、お前!! 普通味ってなんや!! 異常味のヨーグルトがあるんか!!」
「だ、だから、ほら・・・その・・・何にも入ってない・・・」
「何でそれが普通なんや、ゆうてみい!!」

だいたい、普通ってなんや。誰が、「それが普通です」ってゆうたんや。誰が決めたんや、どの味が普通で、どの味が普通やないって。

「だって、虫が入ってるヨーグルトは・・・」
「古代のインカ帝国へ行ってこい!! カメムシの踊り食いが最高のご馳走や、あそこでは。そこやったら、虫入りヨーグルトは『普通』やろ!」

だいたい、何が普通で何が普通でないかなんか、時代やら、地域やらで、ころころ変わるもんや。絶対的な概念やない。しかも、普通って決めてんのは誰や。普通ってなんや。よう考えてみ。普通の子ってなんや。

「親がいて、学校に行ってて、先生の言うこときいて・・・」
「そうやったら、親のない子は異常か。先生の言うこときかん子は異常か」

ちゃうやろ。よう考えてみ。「普通」っていってんのは、「先生にとって都合のいい子」とちゃうか。先生が決めてんのやろ。

ええか、ようお聞き。大事なことや。「普通」ゆうのは、誰かが「勝手に決めた基準」や。その誰かにとって都合のいい基準や。そやけど、普通の反対はなんや。「異常」や。異常と普通やったらどっちがええか?

「普通」
「そや。天気が異常やったら困る。この場合、普通、ゆうのは毎年のだいたいのパターンって言う科学的根拠があるな。重力が異常で、坂の下から上にボールが転がってもちょっと困るな」
「え、おもしろいからいいんじゃない?」
「まあ、そやな。・・・・うん、そやから、異常イコール悪い、ゆうことにはならん」

そやけど、普通VS異常って二つで一組みたいな価値がある以上、残念なことに、普通=良い、異常=悪い、ってゆうことになってしまい勝ちなんや。そやけど、科学的な話をしてへんかぎり、何が普通で何が異常かは、ようわからんやろ。

「考えてみ、ゲイは異常か? 異常やとしたら、ヘテロが普通なんか? 誰がそない言うてるねん? 女の子は化粧するんが普通か? 誰がそや言うてるねん? おかあはやさしいのが普通か?」
「おかあは、やさしいほうが・・・」
「そや、誰かにとって、それが普通や、ゆうのは、自分にとって都合がええからや。怖いおかあよりも、やさしいおかあのほうが、都合ええやろ」

何が普通で何が異常か、そんなもん、誰にもわからへん。そやから、今後、普通ってゆうたらあきません。分かった?

********************
付記: 二元論的価値観、というものからわたしたちは逃れることがなかなかできないようです。白と黒、といったところで、どっちも色なので、どちらのほがより良い色かという議論は不毛なはずです。しかし、白と黒を対立する二つの概念としてとらえ始めたときに、どうしても、善悪という別の対立概念とシンクロナイズさせてしまいます。そして、このようなシンクロナイゼーションは、「潔白」「明白」「白い嘘」などの日常的に使われる言葉によってわたしたちの意識の奥底に深く刻まれて行くようです。

そして、このような二元論的考え方が、普通と異常、男と女、ゲイとヘテロ、という、社会的に構築されてきた概念にすらも、いや、社会的に作られてきた、つまり、権力者のために作られてきた概念だからこそ、深く深く根を張っていることに、息子に気がついてほしい、と思っています。このような概念には、民族、血統、親族、「わたしたち」VS「あのひとたち」、道徳VS 不道徳、なども含んでいます。

普通だからいいわけでも、異常だからいけないわけでもない。普通や異常という概念それこそが、人為的に恣意的に作られた概念であることを、わたしは告発し続けたいと思っています。

追記2: この問題は、とっても根が深くて、実は4年以上前に書いた原稿をもとにしているのですが、まだ、きちんと議論がしきれていない感がぬぐえません。勉強不足を恥じます。師匠、また、勉強しなおします。

追記3: 海さん、素敵な記事にまぬけな蛇足をつけてしまいました。ごめんなさい。

盲腸雑感記

盲腸が無くなって、今のわたしは以前のわたしより、盲腸の分だけ、「わたし」が減ってしまった。これは由々しき事態である。まあ、しかし、もともとの「わたし」の量がよくわかっていないのだから、どれだけ少なくなったか、なんてことも分からないわけだから、いいことにしてしまおう。

退院する際、お茶目な名外科医Dr.Jは

「水曜日に、ハラの傷の上の絆創膏をはがして傷口をチェックしてよ。赤くなっていたり、熱があったり、じゅくじゅくとしているようならすぐに帰っておいで。また、切ってあげるから」

聞いた私は、瀬戸の花嫁。「帰らない、何があっても。心に誓うの」・・・・(古い?)。

そして、運命の水曜日。ハラの絆創膏をはがすというイベントが行われたのでした。でてきたのは、横一文字の切り傷と、それを閉じているホッチキスの針七本。しかも、間隔が、

ばらばら・・・。

だんなは覗き込み、

「うっひゃー、すごいねー。ねえねえ、Y(息子のことだ)も見たいと思わない???」

といって、Yを呼びに行った。

「おかあの傷、見においでえ」
「見てもいいの!! わーい!!!」
「すごいよお、あれは」
「ほんと?? 楽しみだなあ・・・」

娯楽の少ない生活をしていることが丸わかりの二人の会話。

そして、変わりばんこに覗き込み、

「ぐえー、グロテスクー」
「吐きそう!!」
「針の間隔がばらばらじゃーん」
「フランケンシュタイーン」

あのなあ・・・。

「もう、見せてやらん!!」

「あ、けち

わたしは、病人です。見世物ではありません。全くよお!!

ご心配をかけしました!

土曜に病院に担ぎ込まれ、「痛いか」と医者か言うので、「当たり前じゃあ!」といったら、その場でモルヒネを打たれ、即入院。手術は日曜日にしたのですが、あまりに飯がまずいので、火曜日に出てきました。

ご心配をおかけしました。温かいお言葉をいろいろとありがとうございます。回復にはもう少しかかるだろうと思うのですが、とりあえず、生還のご報告だけ。

ちょっと病院へ・・・

昨夜来より、腹痛が始まり、「盲腸炎の疑いあり」なので、これから病院へ行ってきます。だから、しばらく、またしても、更新ができなくなるかもしれません。

コメントいただいた方や、読者になっていただいた方のブログに遊びに行ったり、返事したりしようと思っていたのに・・・・。返事そのほか、帰ってきたら、必ずします。ごめんなさい。

押し付けられるもの

親が子供に押し付けられるものは、何もない。ある一つのものを除いては。性格だって、考え方だって、生き方だって、子供はいつか自分で選んでいくものだ。押し付けようとしても、無理だ。顔だって、遺伝はあるかもしれないけれど、自分の生き方を通じて、子供は自分の顔や表情を身につけていく。

親としてできることは、時々、力を貸してあげること、そして、ときおり深遠なアドバイスをあげること。たとえば、

「大きい小さいは相対的な概念やで。そやから、小さいもんでも、大きいところでは大きいもんや」

とかね。

が、一つだけ、親が押し付けられるものがある。それは、







































名前だ。

だから、親は、姓名判断に頼ったり、辞書をここをせんどとひきまくったり、する。そして、後悔も、する。しかし、名前は一旦決めると、後戻りが聞かないんだな、これが。

村上春樹の「またたびあびたたま」を読みながら、わたしは息子の名前をつくづく、後悔していた。

「あ~しもたあ・・・・田中さんと結婚してたらよかったあ・・・・」
「え、僕以外に好きな人がいたの?」
「ちゃうって。田中さんって人と結婚して、子供に『かなた』って名前つけたらよかった・・・」
「・・・?」
「かわいい名前やろ、たなか かなた」

だって、










































上から読んでも
たなかかなた
下から読んでも
たなかかなた




どや。

***************




著者: 村上 春樹, 友沢 ミミヨ
タイトル: またたび浴びたタマ
子供のとき、「上から読んでも山本山、下から読んでも山本山」って聞いて、「うっそじゃあん。まやともまや、やでえ」って、思いませんでした? だんなに言わせると、わたしは回文オブセッションがあるらしい。そんなわたしにうれしいのが、この一冊。絶対外国語訳できないよねー。

子育ては複数で

ぷれこさんの記事にTBして

わたしのだんなは仕事の関係でほとんど家にいることができる。だから、子供を生んだとき、わたしは一人で世話をする必要がなかった。役割分担は、だんなの友人たちが採用していた方法で、

「IN PUT/OUT PUT」

母乳だったので、入れるのは、わたし。出るのは、だんな。ちょっと、不公平かも。

困ったのは、毎日、夕方になると理由もなく息子が泣き叫ぶこと。オムツもきれい、おなかもいっぱい。寒くもないし、暑くもない。何で、何で、何で、何で泣き止まないの?? わたしのことが嫌いなの??? どうして、どうして????

赤ちゃんの鳴き声は、心に刺さり、気持ちをささくれ立たせる。助けを呼ぶ声だから、人を不安にさせる音色なのは分かる。でも、アラームとちがって、止めるスイッチがない。スイッチは、どこ。どうすれば、止まるの??? 

子供を抱えて、パニックに陥りそうになっていると、だんなが、わたしの手から息子を取って言った。

「散歩に行っておいで」

そうして、わたしは何度も危機を回避した。わたしが、だんなを散歩に送り出すこともあった。もう少し,息子が大きくなってからは、いたずらをした息子にわたしが怒ったりすると、だんなが出てきて、仲介役をしてくれた。だんなが怒ると、わたしが仲介役をした。

あるとき、だんなが出張でいないとき、息子がいたずらをしたので、怒った。仲介役がいないので、止まらない。止めようと思っても、感情が激していて、止められない。思わず、弱音を吐いてしまった。

「おとうがおったらなあ・・・」
「ほんとに・・・」

息子も泣きべそをかきつつ、同意した。そして、二人で、泣いた。

子供を育てるのは大変だ。誰でもいい、追い込まれたときにバトンタッチができる人がいれば。子供から離れて、自分ひとりで深呼吸できる時間が確保できれば。

多分、わたしは、虐待をしてしまう人たちよりも、ほんのちょっと幸運だっただけだ。虐待は、その親が「極悪非道」だから、「責任感がないから」と割り切れない問題があるように思う。たとえば、母親が一人で子供の面倒を見なければいけないような社会のシステムは問題ではないのだろうか。

わたしが息子を虐待せずにすんだのは、だんなが一緒に子育てに参加してくれたからだ。そのぶん、ゆとりができたから。そして、だんなが、わたしを子供部屋から外へ外へと押し出してくれたから。

だから、子育てに複数(夫婦でも、ゲイのカップルでも、何でもいい)の人間が参加できるような社会のシステムが早く整えばいいと思う。子供を持った人のパートナーの産休や保育休暇が、オランダのように実現されれば、追い詰められる母親の数が減るかもしれないと思う。

2. 告知、家族、そして

義母に癌を告知するかどうかについては、どうしていいのかわからず、さまざまな人に相談をした。息子も意見を求められた一人である。

「うーん、僕だったら、いってほしくない、かな? 死ぬんだ、って思いながら、生きていくのはつらいよ」
「でも、誰かって、死ぬやろ。そんで、しらんままに、ぼおっとして、最後の3ヶ月、過ごしたいか?」
「うーん・・・」
「どっちが正しいわけでもないと思う。そやけど、おばあちゃん、どっちがええかなあ・・・」
「おばあちゃんに聞けば? うん、それがいいと思うよ」
「あほか、お前、聞いたら、ばればれやないか・・・」

しかし、認知症の初期段階で記憶力がなくなっている彼女に、いうべきか、どうか。義母をよく知る人たちは、彼女は言ってほしいだろう、と口をそろえた。黙ったままでいては彼女をだますことになり、彼女はそれを一番憎むだろう、と。そして、主治医や、介護のチームとも話し合った結果、告知をすることにした。

義母は冷静に告知を聞いた。

「あと、2・3ヶ月なんですね」

念を押す声が震えていた。しかし、30分後、彼女は主治医に会いにいったことすら忘れていた。

でも、その日の夕食の席で、彼女はいつもなら、5分おきに繰り返す

「今度みんなできたら、Yはえいさんより背が高くなってるわねえ」

を、一度もいわなかった。かわりに、何度も繰り返した。

「ねえ、わたしはアメリカ人だし、えいさんは日本人で、なのにわたしの息子は***人で、孫が***人。みんな、国籍はばらばらだけど、それでも、家族なのねえ・・・」

家族というものに恵まれないまま、一生を「家」に縛られて過ごした彼女のことを考えると、切なかった。そして、義母が席をはずしたとき、

「やっぱり、記憶のどこかに残ってんのかなあ」

とだんなが言った。

「残ってると思うよ。僕だって、ありがとうっていうのを忘れても、言わなきゃいけないのは覚えてるでしょ」
「あのなあ、それは、単に不注意なんとちゃうか?」

と、しんみりしていたら、義母がカップを片手に戻ってきた。そのカップを彼女はわたしに渡した。

「ごめんなさい、お茶を入れてもらえるかしら」

カップを受け取り、わたしは台所に行った。息子もついてきた。そして、お茶を注ごうとして、あらぬことに、悲鳴をあげてしまった。息子も、絶句。なぜか。カップの中には、義母の

入れ歯

が入っていた。

次の日に、早速、入れ歯の入らない小さな直径のカップを自分用に買い求めた。息子はガラスのコップだけ使うことに決めた。来年の春には、この小さな直径の飲みにくいカップを使いながら、入れ歯を思い出して、やっぱり笑っているんだろうと思った。

バナーでリンク

みんながバナーを作っているのを見て、うらやましくなったので、自分でも作ってみました。うーん、いろいろしてみたけど、やっぱり、シンプルなのがわたしらしい。というわけで、作りました。

小人閑居はこれ

せきらら性教育はこれ


ここから持っていってくださいな。それで、もって行かれる方、ご連絡ください。わたしのほうにもバナーとリンクをつけますね。

それから、ひそかにメール連絡用のページも作っています。自分のアドレスそのほか書かずにハンドルネームだけでメールが送れます。ここからどうぞ。


それで、以下、「バナーでリンク」です。面倒くさいので、「小人閑居」と「せきらら性教育」共通ね(なんせ、ずぼら、なんです)。


 
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